『渡る世間は丁目と半目。善いと悪いはひとつ置き』
三寒四温。
昨日は春到来と思いきや一転、今日は冬の再来。
コートを脱いだり、また羽織ったり。
油断して風邪を引かないよう、気をつけてください。
今日は「浅草のお母様」がお見えになる日です。
お母様はわたしよりひと回り以上年上の御年ウン十歳。
某デパートの占いイベントでお会いして以来、10年以上のお客様です。
月に一度、ひ孫さんに会うために渋谷にお見えになる際に寄ってくれるお客様です。
「こんにちは。ひと月ぶりのご無沙汰でした」
お母様のいつもの挨拶です。
「いらっしゃいませ。お元気そうで何よりです」
「渋谷の街は、いつ来てもホントに賑やかだわね」
「そうでしょ。でも、浅草も最近は外国からの観光客も多いんじゃないですか」
「大きなビルジングができ、町も明るくなったけど、古き良き下町の面影が段々なくなって、何だか寂しいような…」
ビルデイングでなく「ビルジング」――時代を感じさせる言葉です。
「今日もとっておきの煎茶といつものT屋のお羊羹を用意してお待ちしていました」
「息子たちはピザパイだ、何とかケーキばっかりで、やっぱり日本茶にはT屋の羊羹が一番よね」
お母様の相談は、以前はお孫さんの就職、結婚とか色々とあったのですが、最近はひ孫さんの命名ぐらいで、占いというより、ほとんどが、わたしが昔の話を聞かせて戴く”講義”のようなものです。
今でこそ悠々自適のお母様ですが、若い時には、旦那様が「飲む打つ買う」の三拍子揃った方で、相当なご苦労をされたとか。
それだけにお話も、付け焼刃でない、心に沁みるものばかりです。
その数あるお話のなかで忘れられないのが、『渡る世間は丁目と半目。善いと悪いはひとつ置き』という都々逸調の粋な言葉です。
要するに「人生は善いことばかりではないし、悪いことばかりではない。その繰り返しが世間というものだ」という意味です。
その意味については、誰しもが分かっていると思うのですが、お母様が口にすると、なぜか説得力も迫力も満点。
数年前のことだったのに、まるで昨日のことのように思い出されます。
閑話休題。
「今日はねえ、この春、きららさんに名前を付けてもらった一年生になるひ孫が入学祝にランドセルを買って欲しいと言うので来たんだけれど、値段が高かったのにはビックリしたわよ」
「もう1年生ですか。早いですねえ。――ランドセルも、わたしたちの時代は、粗末な材質でしたけど、今は皮もいいし…」
「教科書を包むのだったら風呂敷でも何でもいいのにねえwww」
今日も小池都知事の話に始まって、大河ドラマ、果ては美味しい白菜の漬け方まで。――あれやこれや、1時間を越える楽しい”講義”でした。
お母様、いつまでもお元気で。